夜のとばりを降ろす前に


 幸福というものはどのようなものだろうか。
 草木を踏み分けて、コンクリートなど影も形も無いような山道を歩く。晴弘は細く痩せて見えるが、息を切らす様子も歩きずらそうな様子もない。存外体力はあるらしい。
 孫六はその背を追いながら、幸福か、と思い返す。辺りは暗くて、足下さえおぼつかないほどだ。月は出ているのか出ていないのか分からない。鬱蒼と茂る木々に遮られて何も見えやしなかった。

 ――孫六兼元がその本丸に顕現したのは、寒い寒い冬の日だった。
 できたての本丸だというそこは、鍛刀部屋も廊下も、そこかしこがぴかぴかで、一目見て新しい建物なのだと分かった。
 決まり切った名乗りを上げて、審神者と挨拶を交わし、そして始まりの一振りである刀と本丸を巡る。
 真新しいはずの本丸に漂う血の臭いが不快で、つい顔をしかめれば、初期刀は仕方がなさそうに、諦めたような笑みを浮かべていた。
 審神者は、実に人間らしい人間であったと言える。
 だから、怖かったのだろう。その目の奥にあるのはいつだって恐怖で、顔は常にこわばっていて、かわいそうだ、と思った。
 だから、孫六兼元という刀剣男士は、幸福、というものを知ってはいても、なんとなく遠いもののように思っている。

「あんたが見たい『幸福』は……」
 気を紛らわせるように口を開いて、それから口を閉ざした。なんでもない、と話を切る。
 自分が話さないくせによく聞いたものだ。存外弱っているのかもしれなかった。
 赤毛の青年は一瞬だけこちらを見ると、別に聞けばいいのにさ、とからから笑った。鬱蒼とした木々が声を遮って、耳に届く音はくぐもっているように思える。
「昔、仲のいい友人がいてさ」
 よくある話だ。
「俺は長生きだから、そいつは先に死んじゃって」
 本当に、よくある、ありふれた話。
「でも、死に際を見たわけじゃ無い。死体を確認したわけでも無い。 ……だから、期待してしまっている」
 その期待は、よく知っている、と唐突に腑に落ちた。
 寒い寒い冬の日に顕現した。冬の盛りで、外には雪が積もっていた。つま先の感覚がなくなるほど冷え込んでいて、さむいさむいと文句を言いながら畑やら厩舎やらへ向かったものだ。
 白い地面が汚れるのはいつものことで、そのたびに審神者は嫌そうな顔をしていた。
 戦帰りともなれば、白い氷の粒は生暖かい錆色の液体に溶けた。それも、相当に嫌そうな顔をして審神者は出迎えていた。
 それでも、別に文句は無かったのだ。
「きっと、俺が望む『幸福』はそういうものだと思ってね」
「それ、俺に話すような内容か?」
「別に誰に話してもいいんだよ。過ぎたことだし、理性は納得しているし。これは単に感情の問題さ」
 さくり、と草を踏んだ。ぱきん、と枝が折れる音を聞く。
「おお、本当に着いた」
「灯籠……こんな所にあるものか」
「ま、常識から考えれば有り得んだろうね。火元もないし、そもそもこんな獣道を好んで歩く馬鹿もいない」
「そもそも道あったか?」
「なかったかもね」
 思うより眩しくないものだな、というのが感想だった。
 山林のど真ん中にぽつんとある灯籠は、いかにも優しげな橙色の光をこぼしている。けれども、その光は決して遠くに届くことは無く、僅かに周囲を照らすだけ。月も見えないような暗い場所だというのに、ここまで席巻しなければ存在が確認できないのがいい証拠とも言えた。
 怪異とは言い得て妙だ。怪しく異なるモノがそこに確かに在った。
 『幸福映しの灯籠』は世闇の中に佇んでいる。光はあるが、接近するまで見えない。決して叶わぬ未練を持ったモノだけが近づくことができ、灯籠はその前に立った者が望んでも叶わない『幸福』を映し出す。
 その前に立った者が、立ち続ける限り、ずっと。
 それが救いなのか、たちの悪いまやかしなのか、それは幻を見た当人だけが判断できることだろう。噂が広まる、ということは、正しく帰還できた人間もいた、ということでもあるのだから。
「あ、おい」
「前に立つだけだよ」
「それが『灯籠』の条件なんだろうが」
 怖いとか、ためらいとか、そういう類の感情は一切無いらしい。実に軽い足取りで赤毛の青年は灯籠の前に立って、それから僅かに金色の目を見開くと、そのまま目を伏せた。
 夢を見ているのだ、と確信だけが胸に残った。

 幸福とはいかなるものか。この心が思う『幸福』は――……
「はは……はあ」
 そんなものはとっくの昔に知っていた。廃れた神社に居座って、寄り付くものを切り払う毎日を送る前から、ずっと。
 孫六は戦装束の襟巻きに手を当てて、晴弘の隣に並び立つ。橙の灯りが僅かに強くなって、それから。
 ――それから、やや濃い色の桜の花弁が目の前をかすめた。

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