四
気を緩めれば叫びだしそうなほどに、ゆっくりとした時間が流れているのだと思った。
うるさくない夜と、穏やかな物音、それから善意を意図して振りまく人間。そこに悪意は当たり前ながら無くて、いつぞやの戦場のような凄惨さも無く、ただ穏やかだった。
外はとっくに日が暮れて、随分と暗い。外に街灯が内政だろう。この家から漏れた光がかろうじて周囲を照らすだけだ。
壁に掛けられた時計が示す時刻は夜の九時、西暦は二千年に入って少しほど。
「……平和な時代、泰平の世、か」
その時代には覚えがある。刀工孫六の刀を握った人間の中で、特に著名な人物はその泰平の世を生きたものも多い。
知っている。知っていたのだ。
平和な世の中で戦を求めた人間が、どのように心の均衡を保っていたのか、あるいはどうしてわざわざ血を求めたのか、それが仮に歴史の本当では無かったとしても、孫六兼元は確かに知っていた。
だから、余計に最悪だったのだ。
*
刀剣男士といえど、ある程度は人間と同じように睡眠も食事も必要な場合が多い。それは審神者の力量不足を補うためのもので、優れた審神者出あれば、その霊力を持って男士を成立させるには十分らしい。睡眠や食事というのは、男士を成立させる霊力を抑えたり、不足分を補ったりする効果があるそうだ。
それはそれとして、睡眠や食事を娯楽として楽しむ男士も少なくない。孫六兼元という刀剣男士も、どちらかと言えばその類だ。
まあ、一般的な本丸で、一般的な個体として顕現すれば、の話ではあるが。
結局昨晩はほとんど眠れやしなくて、その割に身体は快調だった。身体に蓄積された『淀み』がきれいさっぱり消えた直後というのもあるのだろう。
あの変わり者の赤毛の男は男で、やはり実に自由に過ごしていた。寝坊をして、とんでもなく眠そうに飯を食って支度をして、少し遅れて店を開ける。
酷く平和な光景だ、と思った。
居心地が悪いほどに。
「新入りさんですか? 明日は雪ですかね」
「絶妙にありそうな天気ぶち込むの悪意を感じるなあ」
「ふふふ、どうでしょう。少なくともおばあさまの代から新顔はいなかったじゃ無いですか」
「客って可能性は考えないわけ?」
「お客さんにしては殺気がだだ漏れですから……あ、でも戦帰りならそういうこともありますかね」
「戦帰りで殺気を漏らしっぱなしって、いつの時代の話だ、それは」
もっと言えば別に殺気を向けた覚えは無い。多少の警戒心を向けている程度だ。
思わず口を挟めば、おかっぱの少女はにこりと微笑んで、それもそうですね、と頷いた。どうにも抜けているというか、絶妙にずれた部分があるように思える。
話の内容から察するに学生だろう。その割に立ち振る舞いに隙が無い。武道をたしなんでいると言われればそれまでだが、それにしては血の臭いが酷く濃いように思えた。
およそこの時代、この年齢の少女が纏うには似つかわしくない気配だ。
「用心棒さんですか?」
「ああ、そんなところ」
「なるほど、そうでしたか。それは失礼いたしました。私、伊東夏華と申します。化物殺しの伊東の娘です」
「……関兼元。つい昨日からそこの赤毛の用心棒をしているものだ」
「なるほど、嘘一つってところですか」
にこやかに言い放たないでいただきたかった。
伊東夏華、という少女は当たり前ながらただの女子学生というわけでは無い。
才ある魔術師で、化物殺し。誰より平和を尊びながら、誰より暴力の才に恵まれた。その割に精神はさほど不安定では無く、無いよりはある方がよい、という実に図太い心を持っていた。
へこむときはへこむし、傷つき時はもちろん傷つく。人並みに悲しむし、人並みに怒りも覚える。魔術師で化物殺しという点を除けば、夏華は一般的な少女といって差し支えなかった。
だから、その男の異質さに気がついた、ともいえる。彼女は、死臭も血の臭いも、戦場では嗅ぎ慣れた殺気でさえも、それは非日常と捉える。たとえ毎日それらに触れていて、馴染みのあるものであったとしても、だ。
人では無い。それはいい。魔法使いの店に人ではないものが訪れるのは珍しくない。
死臭がする。それもいい。こういった世界で生きていれば、生き物なりなんなり、一つや二つ殺したっておかしくは無いだろう。
「おまたせー。いつものやつと、お守り」
「わあ、ありがとうございます! 今度大きめのお仕事があるので、やっぱりあった方が良いかな、と。間に合わせてくださりありがとうございます」
「難しいものでもないからねえ。予備も作っとくかい」
「うーん、どうしましょう。懐に余裕は無いんですよね」
「まあ、欲しいならお早めに」
「はい、ありがとうございます」
以前から注文していた身代わりのお守りを一つと、愛用の道具の手入れ道具をもらう。代金は基本先払いだ。
その様子を、じい、と静かに眺めている。敵意にも似た僅かな殺気がどうにも落ち着かないなと思って、夏華はにこりと笑みを浮かべた。
まあそういうこともありますよね、夏華はその辺りの考察を放り投げることにした。
「……ああ、そうだ、肝心の要件を忘れるところでした」
そうして気になるところを放置して、ガラス戸へ足を向けたところでふと思い出す。
夏華は学生で、今日は中間テストということで半日だったのだ。だからこの店でゆっくり話す時間はあまりなかったし、注文していた品も、別に今日取りに来なくても良かった。
それでもわざわざ足を運んだ要件は、晴弘が夏華に一つ頼み事をしていたからである。
「見つかりましたよ、『幸福映しの灯籠』」
人にめったに借りを作らない老練の魔法使いは、その金色の目をただ細めて笑みを浮かべていた。

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