ヒューの実装記念SS
さくさくと草の根を踏む音を聞く。さわさわと木々の葉のこすれる音を聞く。すん、と鼻を鳴らせば僅かに湿気った土の香りが鼻孔をくすぐった。ヒューは夜明け色の目を上方へ向けて、突き刺すような青を指で作ったフレームに収める。
青一色。実につまらない、ありきたりで、ある意味では非現実的とも形容できる光景だ。
「ヒュー」
呼び止められて、視界を元に戻す。紫色の彼女が苦笑にも似た、仕方なさそうな笑みを浮かべていた。
「相っ変わらず好きね」
「そりゃあ、そのために翔になったくらいだからねえ」
「ふふ、それもそうよね」
尚という人工生命体は、ヒューにとっては顔なじみだった。彼女が小さな頃から知っている。今の彼女が昔の彼女とは違うと知ってはいたが、どうしても重ねてしまう己を少しだけ恥じた。
「それで、満足のいく一枚は撮れそうなの?」
人差し指と親指を伸ばして、長方形を形作って尚が言う。ヒューがよくとる、写真の構図を考えるときのポーズだった。
ヒューはサイハテ本部に少し遅れて入った翔の青年である。小さな頃から写真が好きで、いつもカメラを握って過ごしてきた。翔の母と、葉脈の父に育てられたヒューは、傍目から見ても恵まれた子供であったことだろう。特に、母は優秀な翔で、その分稼ぎも多かった。引退した後も、サイハテの事務員としてバリバリ働いている。
ヒューは両親が本部勤めの子供が集まる学校に通っていたが、まあ元々内気な性格であったし、くわえて趣味も決して万人受けするかというとそういうわけでもなく、多感な年頃の子供のコミュニティからあっさりと孤立するのも時間の問題であった。
ついでに、運の悪いことに、ヒューのいた学年にはちょっと素行がアレな子供がいた。ヒューは内気な子供ではあったが、翔と葉脈の子供と言うだけあって、地味ながらも運動神経も頭もそれなりであった。それが、彼は気に食わなかったらしい。
最初はちょっとした暴言から、次に所持品の窃盗、次に軽い暴力。内気で気弱な性格の子供が心に傷を負うのも無理は無い話であった。一言で済ませてしまえば、いじめ、というやつだ。
ヒューはあっさりと引きこもりになってしまった。それがどういうわけか、今現在はこうして翔として地上を走り回っているのだから不思議なものである。
「尚ちゃんも撮るかい?」
「わたしはいいわよ、別に。見せるような相手もいませんし」
ありふれた一眼レフカメラを構えながら聞いてみれば、尚はあっさりと断ってしまう。そうかなあ、とヒューは指定ポイントで写真を撮りながら記憶を掘り返す。
「同じ部屋の子のお土産とかいいんじゃなあい? お金もあんまりかからないし、気をつかわせなくっていいよお」
「お土産、ね」
「昔、翔だったんなら、なおさらね。ぼく、写真の腕には自信があるよお」
「そりゃあそうでしょ、その腕を見込まれたから翔してるんだから」
「えへへ、そうだねえ」
カシャ、というおなじみの音は聞こえない。偵察用に静音仕様のカメラは、彼女の兄にあたる人物がいつか用意してくれたものだ。随分と昔になる。ちょうど、ヒューが翔として正式に雇用されたあたりの話だったはずだ。
あの後、彼はたしか――そこまで思い返して、ヒューは数度瞬きをして、にこりと笑みを浮かべた。
「笑って笑って?」
「ちょっと」
「いいじゃない、一枚くらい。本当に嫌、ってわけじゃあないでしょ?」
「貴方ねえ……」
依頼された写真は充分撮った。ここから先は、完全にヒューの自己満足だ。紫色の彼女は、彼によく似た緑色の目に困惑と呆れと、それからかすかな郷愁を浮かべて、それから眉尻を下げて笑って見せた。
よく似ているなあ、とだけ思う。それだけ。
尚の後ろには好き勝手に生えた数本の樹木と、更に奥には朽ちた家屋がある。周囲に似た建造物は無いから、散村だったか、ただ物好きな人間がかつてここに住んでいたのかのどれかだろう。
「いち足すいちはー……」
「に、ね」
「そう、にー」
ぱっ、とフラッシュが明滅して、デジタルカメラの画面にはぎこちない笑みを浮かべた彼女が映し出される。写真映り悪いのよ、と尚が困ったように笑いながら言うものだから、そんなことないよお、とつい言いかえした。
「これが今の尚ちゃんだよ。飾っても、繕っても無い、今の尚ちゃん。写真映りにいいもわるいもないからねえ」
かちかちと撮った写真を確認するように十字キーを押し込みながら口にすれば、そ、と軽い返事だけが返ってきた。
「それ、後でもらえる?」
「もちろんいいよお」
カメラからレンズを外して、二つとも鞄にしまい込む。煌々と輝く太陽はまだまだ沈みそうに無かった。


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