埃まみれの正義

スドウくんとツバサの話


 ふと、嗅いだことのある匂いを知覚して足を止めた。匂いといっても、ツバサにとってはあくまで「生物が匂いとして知覚する成分の検出」似すぎないが――余程優秀だったらしいツバサの制作者は、ツバサに匂いを匂いとして知覚できる機能を搭載してくれた。だから、こういう表現と思考が出来る。
 それはさておき、とツバサはきょろきょろとあたりを見渡して周囲を確認してみた。賑わいを見せる商店街は当然ながら人が多い。纏う匂いも様々だ。その中で特定のそれを嗅ぎ分けてたどり着くのはまず不可能であろう。
 笑顔を見せる親子に、一人でふらふらと歩く者、どことなく疲れたような者に、なぜだか浮かれた様子の集団――そういった者たちの群れの中をぽてぽてと歩いては、立ち止まる。喧噪に耳を澄ませて、見知った声を探す。嗅覚情報を精査しながら歩いていれば、不意に、酷く騒がしい音の塊を知覚してその方向へ振り向いた。
「待てやコラァ――!!」
 地鳴りかと思った。
 低くドスのきいた怒鳴り声が空気を震わせて、次いで人混みがぱっくりと割れる。逃走を試みているとおぼしき目深にニット帽をかぶった男と、後ろから鬼の――般若と形容してもいいだろう――形相で猛ダッシュしてる男が目に入った。
「ひったくりすんだから豚箱ぶち込まれる覚悟ぐれぇしてんだろうがオラ!! 止まれ!!」
「うううう、うるさい! してるわけないだろ!」
 ひったくり、と小さく呟いて、そうっと気配を消して前に出た。男二人が猛ダッシュするのを避けようと人混みが割れたおかげで、前には出やすかった。
「ひったくりは――」
 とん、とニット帽の男の前に立つ。
「うわ、なんだこのガ、キッ!?」
「ダメですよ!」
 焦ったような声と共に、ツバサを避けようと原則した瞬間を狙って男の腕を掴んだ。並よりは運動は出来るのだろうが、普段陽炎として聖者を相手にしているツバサか見れば随分とのろい。力もツバサに一般人が敵う道理がなかった。
 慣性に引っ張られて男の身体が大きく前に傾き、その表に小脇に抱えていた女性モノの肩掛け鞄がぼすりと音を立てて地面に落ちる。押しても引いてもびくともしないツバサの腕と顔を見比べて、男はようやくおびえたような顔をした。口だけがはくはくと動いている。目は動揺からか瞳孔が小刻みに動いていた。ばけもの、と声にならない声がポトリと落ちる。それをかき消すかのように、
「よくやったボウズ!」
 と喜色ばんだ声が飛んできた。
 黒くてボサボサの髪、左目に大きな傷。目は開いていない。きちんと開いている右目は真っ黒だ。背は高く、おそらくはツバサの慕う「先輩」こと匠よりちょっと高いくらいだろう。手には彼の身長の半分くらいの長さの棒が握られている。所々の継ぎ目の線を見る限り、伸縮式の棍と言ったところだろうか。
「っと、ひったくり犯の確保協力アリガトウゴザイマス、か。悪いな休日中に」
「ひったくりって、盗みですよね? ならツバサはちゃーんと捕まえますよ! 盗ったものは返して、反省しないとダメなんですよね!」
「そうさ、当然のことだ。なあ?」
 恐らく、この男は自警団の人間だろう。きっちりとひったくり犯の腕を縛り上げ、後から駆けつけたスーツの人間に手際よく引き渡している。一瞬だけ妙に顔があくどいというか、悪い満面の笑みを浮かべていたことだけが何となく引っかかったが、口ぶりから察するに悪人ではなさそうである。
 じゃあいっか。
 ツバサはその辺の違和感をまとめて保留ボックスにぶち込んだ。もしもまた引っかかりがあれば取り出せばいいだけのこと。そもそも、人間なんて多面性の化身のような生き物だ。一つの側面で、一つの印象で、その一個人を把握することは酷く難しい。そういう話を、ツバサは良くされてきた。匠や、タスクや、あるいは関わってきたいろいろな人たちに。
「ボウズ、ありがとな」
「ツバサのことですか?」
「ツバサっていうのか、お前」
「はい! ツバサはツバサです! IKAROS666:Codename‐Tsubasaが機体名です!」
「ああ、人工生命体か。仰々しい名前だな、ったく」
 男はツバサの名乗りに一瞬だけ眉をひそめると、周囲にざっと視線をよこして、それから小さく息を吐いた。
「ボウズ、昼はまだか?」
「? はい!」
「ならおごってやる。生憎手持ちがないんでね、その辺の食堂になるが」
 怖そうな顔立ちだが、表情は今は穏やかだ。男の提案にツバサは首をかしげて、それから今まで教えられたことをメモリーから引っ張り出し、笑顔で答える。
「大丈夫です! 知らない人について行っちゃいけないので!」
 対不審者対応マニュアルフォルダに詰め込まれた文面を笑顔で答えれば、男は何かがツボに入ったらしく、変な音を立ててむせ込むほど爆笑していた。

「ああいう往来じゃあ、機体名は避けた方がいい。未だに人工生命体への意見はぱっくり割れてっからな」
 こぢんまりとした食堂の机は、妙に年季が入っていてふるっぽい。その割に決済や注文のシステムはしっかりと電子化されているあたり、どうにもちぐはぐだ。
「あ、先輩が確かに言ってました! 次から気をつけますね」
「へえ、んなこともちゃんと教えるんだな、上層の人間は」
 男の名を、スドウ、という。自警団に所属している一般市民で、背は高く、声は低い。髪は野暮ったく伸びており、伸びすぎた後ろ髪は乱雑に一つにまとめられていた。左目は失明しているようで、こええだろ、と笑いながら傷跡を見せてくれた。眉毛の上から目の下までざっくりと切ったであろう傷跡が痛々しく残っている。
 体格はいい方で、先ほど持っていた棍から察するに棒術を主軸に多少の戦闘訓練は施されているらしい。机の上にのったカレーライスを口に入れながら、どこかサイハテ本部に含みを持たせた言葉を落としている。
「ふふん、ツバサはこうしてるとただのヒューマンと見分けがつきませんから。もうちょっと勉強すれば、こっちの任務にも投入される予定なんですよ」
「なら余計にさっきのはダメだろうが」
「変装してるから大丈夫です!」
「へえ? そういう所はしっかりしてんのな」
 スドウは何やら意味ありげに口角を上げて、まあ俺らには関係ねーけど、と吐き捨てるように言った。やはりサイハテ本部に思うところが少なからずあるらしい。
 ちなみに現在のツバサはいつもの空色の髪の毛ではなく、落ち着いたブルーグレーの髪だ。試験的に中層に降りるのならと、目立たないようにエンジニアがちょっといじってくれたのである。目もいつもの金色ではなく、くすみがかっただ一代色だ。さしずめ2Pカラーと言ったところだろう。
「中層でもひったくりとか、盗みとかって多いんですか?」
 カレーをもりもり口に含んでは飲み込んでいるスドウに、ふと思ったことを口にした。スドウは口に入っている分の食べ物を飲み込んでから、そうさな、と面倒くさそうにあくびをしながら口を開く。食堂は閑散としており、スドウとツバサ以外の人影はない。店主も何やら奥へ引っ込んでしまったものだから、本格的に二人しかここにいなかった。
「このあたりは少ねえな。何せ貧富の差が少ねえし。ちょっと路地裏あたりに行くと増える。表で金使ってるヤツらがうらやましいんだろうさ。もっと酷いところは……無くはねえけど、そこまで行くと窃盗云々よりもっとタチの悪いもんの方が多い」
「そうなんですか?」
「ああ。窃盗なんざ小物の犯罪だからな」
「犯罪に大物とか小物とかがあるんですか?」
「んなことに食いつくんじゃねえよ、物のたとえだろうが。単に程度の話」
 ほう、と頷きながらツバサも自分の分に手をつける。いかにも市販のレトルトカレーですといった味が珍しくて、もくもくと口に運んでいた。
「食い終わったら普通に出ていい。支払いはもうおわってっから」
「はい! ありがとうございます!」
 少々口の悪い男は、そんなツバサの礼になぜだか困ったように曖昧な笑みを浮かべていた。

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