灰寺さん(@slowdown)宅のルナさんと尚ちゃんと置いてくものと置いていかれるものの戯れの会話の話です。
ほのかに、ヤニと、苦くて寂しい豆の香りが滞留している。ふわりと揺れた髪がさらさらと重力に従って落ちていく。銀の砂のようだ、と思った。
「――『暴力』という選択肢は」
抑揚の失せた声だ、と音を口の中で転がしながら思う。こんな言葉もはけるものか。彼女はそうそうこんな話し方はしなかったが、さて、いよいよ己は彼女とは違うらしいと、わかりきっていた確信をかみつぶすように言葉をたぐる。
「いいえ、どの選択肢も同じね。対人における選択肢は、基本的に自分が向けられたものでなければ発生しない。あくまで選択肢の有無で、その選択肢をどう選ぶかは、その人の在り方に依るのでしょうけれど」
青みがかった緑色は紫を映すことは無く、ただドアの向こう側を見つめていた。彼の口は酷く硬い。糸で縫い付けたか、接着剤でくっつけたかでもしたかのよう。
まあ、無理も無い話だろうか。
彼が置いていかれたのなら、彼は置いていった方。こういった立場には慣れていないか、と医務室と記載されたプレートに目を向けた。この無機質な扉を挟んだ向こう側で、どうせあれはへらへらと笑っていることだろう。
「待つのは苦手かしら、おつきさま」
「そうでもないよ。待つ、という行為は何事においても重要でね」
視線はそのまま、ただ扉の奥を見ている。
こんなところで立ち話が出来る程度には深刻な話では無い事態である。事の起こりは少し前、部屋に何故か流血したままの匠が帰ってきたことが原因であった。
曰く、変なヤツに絡まれちゃって。
本当の本当にそれだけで報告を済ませやがった挙げ句、適当な止血で大丈夫でしょとかやり始めたので呆れたルナが医務室に押し込み、その様を任務帰りで部屋にいるであろう匠を尋ねようとしていた尚が目撃して今に至る。
あの間抜けめ、というドスのきいた悪態をルナは聞かなかったことにした。彼彼女らにも色々とあるのだろう。
実際、彼の傷は本当に大したものでは無い。単に切ったのが頭部だったため、出血が多く見えているだけであった。だからといって雑な処置にして良いわけでは無いのだが。
「そういうわたしも待つのは慣れないでしょう、とは言わないのね」
「ええ、そんな意地悪なことそうそう言わないよ」
「どうかしら。存外底意地悪いんじゃ無いの、貴方」
「心外だなあ」
コチコチと時間を刻む時計の音さえ響かない無機質な廊下は、通りがかる人間なんていなかった。時間的には誰かいてもおかしくは無かったが、単にそういうタイミングだったのだろう。医務室の中の音は当然聞こえない。分厚い扉一枚隔てた先の会話など聞こえるはずも無かった。当然、逆もそうだ。
僅かな沈黙が通り過ぎて、それから尚が口を開く。貴方は聡明ですから、という淡々とした言葉。普段彼女が他の人間と接するときの音とはかなり印象が違う声。穏やかで相手を気遣いながら話すような音では無かった。
「あのお間抜けさんがちょっとおかしいことには気がついているのでしょう。もっとも、貴方からそういう話題を振ることなんてないでしょうから、もしもわたしの思い過ごしでしたら、ごめんなさいね。そのときは話を遮るか、そのまま聞き流してくださいな」
サイハテを歩く人間の事情は様々だ。まして、それが本部に所属する人間ともなればなおさら。
ただのヒューマンもいれば、人工生命体もいる。ルナや尚のような死人の生き返りようなものもいるし、過去の影を重ねて縫い合わせたような在り方をとるものもいた。現在に至るまでの道筋など腐るほどあり、それら一つ一つについて辿るなどやっていられない。
ある種、ルナが抱える過去だってその一つと言えばそうだろう。他人からすれば辿ってなどいられない、掃いて捨てるほどある『事情』の一つ。彼女はそういうものとして事実を並べている。
「あの間抜けに話したのでしょう。ああ、心配しないでくださいね、わたしは詳細は知らないから。話題の頻度が急に減ったから、まあそういうことなのだろうと邪推しただけよ」
「……はは、らしい話だね」
「無視しておけば濁せたでしょうに」
「どうだろう。少なくとも、キミも話をこぼす気はないのだろう」
「さて、どうかしらね。人の心ほど信用ならないものは無いわ。わたしは単に、わたしの一番大切が守っているラインを踏み越えないようにしているだけですから」
新緑のような緑色が、作られた人工の瞳孔がずうっと扉の奥へ向けられている。扉の奥に、多分彼女の言う『大切』が気の抜けた顔をしていることだろう。そういう脳天気さがある。
「ある意味では、彼の有り様は酷く異常だ。過去がすっぽりと抜け落ちてしまっている」
「ええ、そうね。貴方のように開きそうになっている蓋を押さえつけているわけでは無く、ガチガチに蓋を閉めて、その上から接着剤でもぶちまけたんじゃないかしら。まあ、その方がいいでしょうね。叶うのなら、そのままでいてくれれば良いんですけど」
銀色の髪が風を含んで揺れた。ルナの顔が尚に向けられたためだ。表情には僅かな困惑を称えて、しかし口は閉ざされたまま。普通はそうよね、と苦笑じみた笑みを浮かべて、尚は小さく息を吐いた。
尚、という人工生命体と、ルナ、という人工生命体はさして接点は無い。それでも互いが互いを認知していたのは、双方の共通の知人故か。
ああ、いや。
知人と言うにはあまりにも形容しがたい感情を向けている。尚も、ルナも。
尚は、あくまで『この尚』は、ロアのこともルナのこともさして深く知らない。いつかの誰かは、かつての彼らを知っていた。遠く、他人の距離で、それでも確かに。
過去と現在があれば、その間を推察するのは容易かった。まして、尚は――尚は。
あまりにも、彼らの心と近すぎた。
忘れっぽいどこぞの誰かさんとは違って。
「……ああ、それは確かに」
ルナは静かにそう言うと、視線の先を医務室の扉へ戻した。もうじき処置が終わる頃だろう。傷は深くは無かったが、いかんせん時間が経っていたとのことで、諸々の確認に時間がかかっているらしかった。
「こちらが忘れ得なければ良いだけの話だ」
「そうね、それもそうだわ」
小さな違和感に蓋をする。話したって仕方がない。議論の意味は無い。そんなものに時間を割けるほど、心を砕けるほど余裕のあるモノがどれだけいるだろう。
この罪悪を抱いて、いつか相手が忘れてくれれば良いと願う。
(いつか誰もいなくなるとして、僕が覚えていれば良いだけ。 ……それだけ)
そんなさみしい独白も、
(毒にしかならない過去なんて、きっとわたしごと消えてしまえば全てお終いなんですから)
そんなかなしい決意だって、
別に、別に。打ち明ける必要もないのだから。
ぷしゅ、という気の抜けた声に顔を上げて、ふらりと尚は足を動かす。物言いたげな視線に片手を上げて、
「あの人にどうぞよろしくね、おつきさま?」
とだけ告げて小さく笑んだ。


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