願い知らず
槍主従の話。聖杯戦争1日目。
聖杯。万能の願望機。そんなものがあったところで、と思う。
どんなことを言ったって、聖杯というものはただただ膨大な魔力リソース以外の何物でも無く、自分のこういうタチを変えられるとは思えなかった。
聖杯で願いを叶えようとするのならば、その「過程」が必要だ。だとすれば、この『観測者』である役回りから解放されたいなどという願いをどう叶えるというのだろう。省略するべき過程が存在しないのであれば、叶える手段は存在しないのも同義だった。
――そういう、酷い諦めの念だけを夢に見た。最初に家族を失った。次に自分よりも大切だと思った子供に出会った。それも失った。得たものは沢山ある道のりだったが、そのいずれも、ことごとくが手の指からこぼれ落ちるように失っていった。掬った水がいつまでも手のひらにとどめられないかのように、どんなにあがいたところで結末はいつだって変わらない。
「サーヴァント・ランサー。呼ばれたんで来ましたけど、あんたがマスターってことで、合ってますかね」
黒い髪、黒い目。空虚な表情。召喚寸前に流れ込んだ、吐き気を催すほどの諦観。その道筋。そういったものを全て腹の内にしまい込んだまま、男に問うた。
「――……」
男は僅かに目を見開き、それから息を吐く。何かを呟いた口の動きをしたようにも見えたが、言葉は聞き取れなかった。
「ああ。龍童令、だ。ランサー、お前の名は?」
「原田左之助です」
「分かった。なら早速で悪いが」
思うよりも厳つい名だ、と言葉を待つ。表情は変わらない。ただ目の奥に諦めに似た感情がずっと浮かんでいる。そういう風に思えた。
「大変申し訳ないが、俺はまともに聖杯戦争をする気が無い。聖杯は諦めてくれ。不満があれば、今ここで俺を殺すことだ」
「は?」
男の自宅は簡素な作りの一般的な民家だった。強いて言えば、和室が多いくらいなもので、リビングと寝室が和室で、ダイニングとキッチンが洋室。自室とおぼしき部屋も多分和室。特筆することと言えばそれぐらいだ。地下室があるのは、民家にしては珍しい。そういった知識を聖杯から引き出しながら、ランサーはテーブルを挟んで向かい側に座る男を見た。
「まあ、聖杯は要らねえって言うのは別にいいんですけど。その……なら何で聖杯戦争なんかに参加したんです、マスター。それもこんな一番乗りで。めちゃくちゃやる気満々なのかと思ったんですが」
「一番乗りになったのは事故だ。ライダーとアサシンの召喚が盛大にすっこけて、その後始末をしてたらお前が来ただけ。マスター候補は事故の時にまとめて吹き飛んだがな」
「この時点で二騎欠けてるんすか」
「そうなる。そう時間をおかずにあと一騎召喚はされるんだろうが、な」
穏やかでは無い話だ、とランサーはそうなんすね、と相づちを打った。それ以上は何も言わない。聞かれたら答えるが、聞かれなければ何も言わないつもりなのかもしれなかった。
聖杯戦争に参加する理由が無い、と龍童は言った。
結局の所、叶えたい願い事も無ければ、それに準ずるものもない。だから今回の聖杯戦争だって傍観と後始末役だけするつもりが、こうなってしまっただけなのだと――そんな言い訳めいたことを口にしていた。
事実ではあるのだろう。水底で息をするかのような酷く息苦しい呵責を思い出す。召喚の寸前に見たアレは、この男の心象風景だろう。そういうことが稀にある、と聖杯から得た知識で知っていた。
龍童は、死んでもいいと本気で思っているのだろう。こうして暴力装置が目の前にいる状況で、先の発言だ。その上で、何の迎撃手段も防御も行おうとせずにここに座っている。気に入らないなら殺せ、というのは心からの本心だ。むしろ、そうしてくれればいい、という半ば投げやりな諦めさえある。
その上で、そうされない可能性があると言うことを龍童も承知していた。未練が必ずしも聖杯で叶えられるものだけではないと知っていたからだ。だから、これはただの淡い自殺願望のようなもので、それ以外の含みはない。ランサーは呆けたように目を見開いたくらいで、殺しはしませんけど、と言ったので今に至る。
「ああ、そうだ」
黒い目をランサーに向けること無く龍童が口を開く。窓から見える外は暗い。障子が降ろされているから外の風景は見えなかった。ただ屋外の光に照らされて、白い紙から辛うじて透ける街灯が見えるだけ。
「それ、普段は脱いでもらえるか」
「ああ、羽織ですか。そうですね、コレ、流石に真名だだ漏れっつーか、自ら名乗ってるみたいなもんっつーか」
浅葱色の羽織をつまみながら、これを未だ羽織るのか、と無感情に眺めた。よくもまあ、この羽織を羽織って顕現したものだ。そのように座に登録されたからだ、と分かってはいたが、それにしたって厚顔無恥なものだと思う。
「衣服も洋装にした方がいいですかね。真名隠匿みたいな意味で」
「どちらでもいい。好きなようにしてくれ」
「……うす」
浅葱色のだんだらを脱いで、たたむ。たたまれて平方の形になったそれが、心細いほどに小さいものに見えて、そのまま脇へ置いた。
龍童はランサーの方へ目を向けることも無いまま、机の上に散らかっている紙束と向き合っている。嫌われている、という感じでは無い。ランサーが問えば答えてくれるし、必要なことはマスターから声がかかる。その声色に嫌悪の色は無い。ただ、好意の色も無かった。
そんなものだろう、とランサーは羽織を掴んで、それじゃあ俺は待機してます、と声をかけて霊体化した。
「……悪かったな」
ふと、そんなことを思い出したように龍童が口にしたのが気にかかった。
*
聖杯戦争、と言うものに対して期待はしていなかった。だから最初から参加するつもりは無かったのだ。
生まれたときから――あるいは物心ついたときから――そういうものだ、という自覚だけがあった。自分は何も変えられない。何かを変える権利を持たない。今を生きる人類として定義づけられながら、何かの運命に介入する権利を有していなかった。
天性の観測者、と誰かが評した。それは才能で在り、呪いでもあった。何者にも干渉しないというのは、なるほど確かに才能と言えば才能だろう。何かを客観的に、第三者の目を通して観測するのであれば、これ以上の適任はいない。どんなにその物事の渦中に踏み込もうと、その存在が物事の運命に干渉しないのであれば、きっとそれは何よりも優れたカメラ足りうるのだろう。
クソ食らえだ、と龍童令は吐き捨てる。
そんな運命は要らない。そんな才能は要らなかった。ただ観測者が死なないようにと力だけが与えられていた。それだけ。守りたいものも守れず、憎いものを滅ぼすことも出来なかった。酷い無力感に吐き出しそうだった。何度も自ら死を選ぼうとした。それでも終わることは出来なかった。
「ふうん。あたしは別にいいんですけど――あんたは本当にそれでいいわけ? 聞いてる限り、あたしに協力するメリット、ゼロじゃない」
「そうだな。たぶんそうだ。でも、この儀式に関わっている間は、何も考えなくて済む。これが俺のメリットだよ」
「考えなくて済む、ねえ。まあいいわ。あたしはあんたの持ってる術式が借り受けられればそれでいいもの」
少女はにこやかにそんなことを言う。獰猛な肉食獣のような、それでいて人を惹き付けるような、カリスマ性をたたえた笑みだった。
「もう儀式は始まってしまった。どこのどいつが始めたのかは知らないけれど、器も無いのによくもまあ始めようと思ったわね」
「一応、人理の影はまだ現れてはいないんだろう」
「現れていないだけよ。もう縁は結ばれたもの。呼び出されるのも時間の問題だわ」
淡々と告げながら、少女は息を吐いた。正規の聖杯戦争であれば歓迎なのだけれど、等と物騒なことをいいながら龍童の方へ視線を向けた。
典型的なイギリス人。金髪に碧眼の彼女は、おそらくは端から見ても美人の部類に入るのだろう。この土地に後から入り、そして実質的なセカンドオーナーである彼女からすれば、確かに聖杯戦争はある意味では歓迎するべきものなのかもしれなかった。
――どうでも良かった。戦争が起きようが起きまいが、その結果はどうせ自分には変えられないと知っていた。
「器が無ければ聖杯は聖杯になり得ない。溜まった魔力が行き場を失ってあふれてお終いだわ。だからそうなる前に、聖杯を解体します」
冬木の聖杯が奪われ、いずこかで聖杯戦争が起こって、そして更にもう一度聖杯戦争が起ころうとしている。
かつてのような規模にはならないだろう、とセカンドオーナーである彼女は言う。何せ不完全な聖杯だ。そもそも、正規の聖杯戦争通り七騎のサーヴァントが召喚されるのかどうかさえ怪しい。
「聖杯があるって文句に誘われて魔術師はもうこの土地に来ちゃってるし。そもそも、この土地爆弾が多すぎるのよ。土地はいいんだけどね」
「……話は終わりか?」
「なんだ、雑談ぐらい付き合いなさいよ。そんな余裕も無いわけ?」
そういう彼女の目は冷めている。はじめから、龍童の提供する術式以上の興味は無いのだった。顔のすぐそばまで持ち上げられた右手の甲には赤い痣が浮かんでいる。マスター候補である証だ。 杯に魔力はとっくの昔に満ちている。始まるのは時間の問題で、だから彼女は準備を急いでいた。それこそ、こんなただの一魔術使いに協力を求めるほどに。
「仮の器もどきは完成してる。でも保持できる魔力は英霊の質に依るが四騎が現界だ。その前に何かしらの手段で聖杯を解体しなければならない。本当に出来るのか」
「出来る出来ないじゃなくて、やるのよ。ここが木っ端微塵になるのは困るもの」
そこに偽善の意思はなく、ただ明確な利己の原理だけが横たえていた。それを、遠くうらやましいと思いながら、右手に浮かんでいる赤いタトゥーを隠すように背を向けた。
雲が分厚いのか、月の光さえ届かない。タダ街灯が煌々と夜道を照らしているくらいで、都心部とも田舎とも言いがたい町の夜は薄暗さを保っていた。
「今のが主催の一人っすか」
不意に、霊体化をわざわざ解きながらそんなことをランサーが口にした。浅葱の羽織は羽織っておらず、代わりに白い外套を腰に巻いたような、現代風の装いになっていた。なるほど確かにこれならば真名の推測もされにくい。
「まあ、そうだ。遅かれ早かれ一騎は召喚されるって言ったのは、あいつ。メアリー・ブラウン。イギリスの魔術師で、この土地の実質的なセカンドオーナー」
「マスターも主催側っぽい会話してましたけど」
「俺はとばっちりだ。参加するつもりは無かった。 ……無かったんだよ」
ランサーは何か含んだような視線をこちらへ向けた後、そうすか、とだけ返した。
「俺もブラウンも、結果として主催みたいになってるだけだ。目的は聖杯の解体。この土地の聖杯はとっくの昔に汚染されてて使い物にならない」
誰が始めたのかは知らない。メアリーの言うとおり、本当に発端は分からないのだ。
誰が始めたか聖杯戦争。万能の願望機を巡る戦いは、その実根源へ到達するための魔術師達の奸計のようなものであり、そしてそれもうやむやなまま消え去った。後に残ったのは大聖杯の残骸というはた迷惑な代物だけ。
「汚染……ですか」
「詳細は知らん。ただ、アレはもう万能の願望機なんかじゃ無くて、ただの災禍の種だってことだけは知ってる」
「酷い広告詐欺っすね」
「そうだな、確かにそうだ」
あんまりな言い様に思わず喉を鳴らした。確かに酷い広告詐欺だ。万能の願望機を銘打ちながら、その実は災厄を呼び込む泥の杯。主催であるセカンドオーナーとその共犯者は動き出した聖杯戦争の裏で聖杯そのものの解体を試みている。
ランサーは表情を変えることの無いまま、ただ黙って隣を歩いている。隣、というよりは斜め後ろだった。
革靴の音が夜半の街に空虚に響いている。気まずさを感じながら、かといって離すことも無い、と口を固く結ぶ。
不可解だった。おそらくはそれはランサーとで同義だろう。聖杯は諦めろ、と明確に口にした。不満があれば殺せ、とも。聖杯は聖杯の所有者を決めるために、別のマスター候補を出すことだろう。聖杯を求めるのならば、ランサーはマスターを拘束して別のマスターを探せばいい。
「汚染した聖杯って、どんな挙動するんすかね」
足を止めた。暗い夜道では長く伸びた前髪も手伝ってランサーの表情を読み取ることは出来ない。冬の初めの冷たい空気を吸って、そうだな、とぎこちなく口を開いた。
「前例を知らないから何とも言えないが、確かこの聖杯を使った過去の聖杯戦争で復讐者のエクストラクラスが呼ばれた、と聞いた」
「エクストラクラスすか。そんなほいほい呼べるもんなんですかね」
こつん、と硬い音に再度足を動かす。
「普通は呼べない。この聖杯を編んだ魔術師のうちの一つがズルをしたそうだ。その復讐者霊基が聖杯を汚染したんだと」
「へえ」
本来であれば、一つの英霊の魂が聖杯を汚染するなんてことは有り得ない。魂は魂で在り、それは無色透明の魔力の塊のようなもので、それがいくら器に注がれようと透明なままのはずなのだ。
それが汚染されたと言うことはそういうこと。余程純粋な悪だったのだろう、と推測は出来る。龍童にとってはそれだけだった。だって関係ない。
その聖杯によっていかなる災厄が呼び寄せられようが、あるいはその蓋が開かなくたって、そこに龍童令という人間の存在は関係ないのだ。
「まあ、俺も聖杯にかける願いってやつは今のところ無いんで……そうですね。今はとりあえずこのままってことで。新しいマスターを探すってのも面倒ですし」
野心が無いことで疑われても面倒ですし、とぼそりと落とされた言葉に、そうかもしれないな、とだけ返した。まっとうな魔術師であればあるほど、そういう傾向は強いだろう。
奇妙な縁だ、と思った。到底叶えられない願いを抱えたマスターと、願いらしい願いなど無いというサーヴァントとは、なんとも相性のいいことだ。
殺してくれればどれほど良かったろう、と空想する。するりとすぐそばにあった気配が消えた。話が終わったと思ったのだろう、ランサーが霊体化したらしかった。


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