エメちゃん尚ちゃん同室記念のはずでした。
※注意
・人の心ナイナイしたクソモブ
跳んで走って駆けて逃げる。そうやって走って行った末に、目に入ったのはずっと愛している緑色では無くて、しかし見慣れた人影で――
「――ッくそ!」
そこで、目が覚めた。時刻は午前五時。まだ部屋の中は暗い。思わず吐いた悪態に、同室者がいなくて幸いだったな、と息を吐いた。
嫌な夢。尚は眉間にしわを寄せると、一丁前にただの人間と変わらない頬の皮膚を一つねりして、それからベッドから降りた。私物の少ない尚の部屋は、一人部屋といえど妙に広く感じられた。
尚という人工生命体は、表面上さほどデリケートな問題を抱えているわけでは無い。オリジナルとほぼ同一の性能を持ち、改造された己の肉体について主立った不満も漏らしてはいない。彼女の実の肉親については――まあ、割愛しよう。ここで話すような内容でもないし、尚にとって大切な一要素ではあるが、それだけだ。強いて言えば、この尚はオリジナルとオリジナルの両親のことがあまり好きではない。根本的に、今の尚の価値観と合わなかったのだ。
けれど、裏を返せばそれだけだ。尚はそのことについて他者から無遠慮に触れられたところで怒りはしないし、むしろ笑って流す余裕さえ合った。
とはいえ、だ。
尚はその性格のせいか、あるいは逃走に重きを置いたスペックのせいか、少人数でチームを組んだとしても単独行動になりがちだ。サイハテ上層部はそれを良しとはしなかったらしい。
頭痛にも似た頭の重さに舌打ちを鳴らすと、ちかちかと小さく明滅する端末のランプに更に舌打ちを鳴らした。翔の依頼サーバーにまた依頼が積み上がったのか、と苛立ちのままに乱暴に端末を手に取って画面を点灯させた。
そうして、尚はその不可解な指示に首をかしげることになる。
部屋移動、と緑色ののっぽは目を瞬かせると、まあたまにあるよね、とのんびりした調子で言った。本日は徹夜はしていないらしい。
「大体は、個室住まいが二人部屋に割り当てられるとか、そういう感じじゃない? 後はほら、部屋の耐久性とかさ」
「後半はどうあがいても陽炎の話じゃ無いの」
「爆発実験を繰り返すアホ葉脈の話でもあるかなあ」
「うわ……」
わかるよ、と疲れ切った表情で頷く彼も被害に遭ったことがあるのだろう。心なしか頭上の二本のアホ毛が垂れ下がっている。
そう、と尚は頷いて背を向けた。もういいの、と穏やかな声に、片手だけ上げて返す。
よく聞き慣れた声だった。それが、今は酷く痛い。だから聞きたくは無かった。もう一つだって過去の残滓なんて無いくせに、そういう所だけは柔らかいところへ触れては去って行く。無責任よね、と諦めている心だけが冷えていた。
部屋を移動しろ、という通知に首をかしげたのが今朝で、訓練をこなした後にすれ違った匠を捕まえてその話を振ったのが今。夕方になったコロニーの中は偽りの夕暮れ色に染まりきっている。
匠は二年ほど前に部屋を移されており、そのときに同じく葉脈に所属している人工生命体と同じ部屋となっていた。尤も、匠もその同室の人間も、そういった話を表立ってするタイプでは無いのか、思うより彼らの生活に変化は無いように見えた。
自分はどうだろう。己に問うてみたところで答えなど出るはずも無い。そもそも、移動した先に誰かがいるのか、誰がいるのかさえ知らないのだ。尚は朝適当にまとめ切れてしまった私物を抱えて、自室であった場所を出る。無機質な廊下に嫌なほど靴の音が響いて、緑色の目を僅かに細めた。
まあ別に良いか。人と過ごすのは嫌いでは無かった。誰かと接しているときは余計なことを考えずに済むし、社会的な営みというのは生を実感できる。話すことも、感情を抱くのも、それがたとえどんなに不愉快なことであったとしても、それは生きていなければ感じ得ないものだからだ。
こつん、と軽い音が響く。ここね、とドアのすぐ隣にある無機質なパネルに手の甲をかざした。全身が収納出来る箱で構成された尚の手の甲部も例外なく収納が出来て、尚はいつもそこにカードキー類を放り込んでいる。
無機質な電子音と共にドアが開く。スライド式のそれがレールとこすれるほんの僅かな音を聞いて、それから小さく息をのんだ。
「あ、尚さん……」
「エメさんじゃないの。なんだ、同じ部屋になるのって貴方なのね」
「ふふ、うん、そうみたい。良かった」
ほう、と息をつく。赤の他人であればどうしようかと思ったが、流石に上層部も気を遣ったらしい。いや、単に相性を考慮しただけかもしれない。もっと協調性を身につけろと言いたいのか、尚がもっとも気を遣う相手を選んだのだろう。だとすれば、嫌な話ではあるが大正解ではある。
尚は、その生い立ちと己の心の在り方の都合上、彼女に寄り添わずにはいられない。
くそったれね、という本心をきれいさっぱり飲み込むと、入って良いかしら、と声をかけた。部屋の中にいたまっしろい少女はぱちぱちと目を瞬かせて、それから小さく頷いた。
口元に浮かんでいた弧が、作り物でなければ良い、とだけ思った。
*
うわ、と思わず声が出た。久々に聞くなああの手の口論、と鞄を抱え直して、匠はこの物陰から出ようかうっすらと悩む。
ここの通路は比較的上層に近く、葉脈が普段滞在している研究区画よりは翔や陽炎が行き交うことがずっと多い。だから、たまにこの手の口論――ヒューマンと人工生命体のいざこざというものが目撃される。九年もここにいれば、当然目にした回数も一度や二度ではないし、見慣れはしないが驚きもしないくらいには見たことがあった。
だが知人がそこにいるとなれば話は別である。
もっと言えば口論の焦点である者がここにいるのだから更に話は別である。
迂回を考えたが、既に目撃してしまっている以上無意味だろう。匠から見れば小さな彼女は、ただすっぽりと表情を落っことしてしまったかのような顔をしていた。酷い顔だ、と思った。
「他人が得た情を利用して好かれようなんてやつと同じなんて、誰だって嫌だろ、普通さあ」
思わず舌打ちをしたくなるような露悪的な言葉だ。それを、紫色の影は淡々と受け止めて――は、いなかった。珍しい話だ。
「そうかしら。露悪的に振る舞われるよりも余程居心地良いわよ。少なくとも、同居人と仲良くすごそうという意思があれば、それなりに上手くはいくものだわ。わたしたち、存外単純だもの」
言外にお前みたいなヤツと過ごす方が余程苦痛だと訴えている。顔だけはにこやかな笑顔なのが怖い。女の子って皆あんな感じなのかなあとか思ったのも懐かしい話である。
あの翔は、恐らく口ぶりから察するに彼女の元同僚だろう。自分のすぐ後ろに隠すように立たせた白い少女、もとい『エメ』は、元々は翔だったのだ。
――なあ、アンタさ、あの偽物と一緒の部屋なんだって?
そういう露悪的な言葉が聞こえてきて、尚は初めてその翔の顔を真正面から見た。翔、という部署はチームで行動することもあれば単独で行動することもある。尚のような素材回収を主軸に億探索チームは、どちらかと言えば単独行動を取ることが多い。今回も尚は単独任務で、地上への探索許可届を無事にもらったので地上への入り口、いいや出口へ向かっているところだった。
最初は単純な悪口。それ自体はありふれたものだ。人工生命体への偏見、聖者信仰に対する否定、様々な悪意が人の薄い皮膚のすぐ下に渦巻いている。それを、人によく似た尚はよく知っていた。
「にしたってさ、よくもまあ、このチームに来ようと思ったよな」「偽物のくせに」「あの人も可哀想にね、あいつがいるせいで本物のエメが戻ってきても、もう戻せないんでしょ」「図々しい」「早く稼働限界を迎えるか壊れれば解決するのにな」
だから、だから、こんな下卑た言葉だって聞き慣れていた。思うところは腐るほど在りはしたが、突っかかっていたって仕方がない。これはある意味価値観の問題で、どんなに意見を衝突させたところで無意味なのだから。
「あれ、あの子」
「あ? ああ、あいつかあ!」
指をさされた、と認識して足を止めて、そして先の言葉が降り注いできて、冒頭に至る。
普通は嫌だろう、と続いた言葉に、そうでも無い、と返す。そうでも無いどころか、こんな言葉を投げかけてくる人間こそお断りである。
下品な顔、と表面上だけ笑顔を繕って、冷めた目で翔のチームを見た。ヒューマンと人工生命体がおおよそ半々の、端から見れば普通の、むしろ人工生命体にも寛容な良いチームに見えることだろう。
尤も、と尚は緑色の目を細めた。人の心ほど信用ならないものは無い。人の表層ほどアテにならないものも無い。どんな祈りも、どんな願いも、どんな希望すらも、実に呆気なく、悪意すら介在せずに壊されてしまうことを尚はよく知っている。
「ええ、本当にそうか? なあ、無理はしないでとっとと嘆願でも出しとけよ」
「そうだよ、貴方だってつらいでしょ? あんな嘘つきと一緒だなんて、さ」
並べ立てられた言葉を砕いて、飲み込んで、吐き捨てた。何とも醜悪で傲慢な言葉だ。ヒューマンから飛んでくるならともかく、人工生命体空すら出てくるとはお笑い種だ。
「あら、ならわたしもそう言われなくてはならないわね」
口を開く。言葉を選ぶ。緑の目に映るのは下卑た言葉を意気揚々と並べ立てる愚か者と、その後ろで萎縮して口を開いては閉じる愚か者。
他者への悪態が、たとえ第三者へ向いていた者だったとして、それが眼前の相手に当てはまらないとも限らない。そんなことさえ分からないとは、と尚は息を吐いた。
「わたし、オリジナルを模して作られたの。記憶も、見た目も、全部同じ」
「へえ、そうだったのか。なら余計にアレのことが――」
「けれど、わたしの心だけは別物なのよね。挙げ句、オリジナルを望んだ誰かは死んでしまったようなものですし。わたしの『オリジナル』を知っている人もいますでしょうけれど、そうねえ、そんな言葉を吐かれたことは無かったわ」
ああ、と言葉を連ねる。不可解そうな顔をする翔と、僅かに青ざめた翔と、それから後ろで息をのむ誰かが酷く滑稽に映った。
「たしか、あの子は懲罰房に入れられたことがある、と聞いたのだけれど」
はて、ととぼけるように顎に指を当てて首をかしげて見せた。経緯をよく知らなくて、と眉を下げて苦笑を浮かべる。青ざめた翔は止めようと口を開いたが、愚かな翔は尚の言葉に気を良くしたのか、更に愚かな言葉を重ね続けた。
輪を乱すだとか、命を預け合う仲間を騙したとか、そういう言いがかりに似た言葉。
おかしな話である。後ろで萎縮している翔は少なくともそうは思ってはいまい。主だって彼女を、『今のエメ』を嫌っているのは恐らくこの翔二人だけで、後ろでまごついている彼らはどちらかと言えば罪悪感の方が強いのだろう。
まあ、黙っているのであれば同罪だが。
(本当におかしな話。オリジナルになりたいあの子と、オリジナルにはなり得ないと諦めたわたしと。どちらが本当の意味で偽物なのでしょうね)
だいたいさあ、と翔は更に言葉を重ねていく。止めようとしていた翔は、尚が変わらず黙って苦笑で聞いているのを見て何かを勘違いしたらしく、そのうち隣でうんうんとうなずき始めてしまった。
最初の尚の言葉を聞いていたのだろうか。多分聞いていないか、あるいは意味を理解できていないかだろう。
「あいつ、自分が『エメ』じゃないって分かってるのにああ振る舞うんだぜ? 気持ち悪いったらありゃしない」
「……そうね、確かに気持ちが悪いかもね」
そうだろう、と翔二人が頷いたのを見て、尚はいっそすがすがしいほどの笑顔を浮かべて見せた。
全くもって素晴らしい。
人の心とはこうも醜くあれるとは。
「オリジナルを想い、制作者を想い、偽りと知ってなお、心を殺して彼女であろうとするあの子をけなせるなんて。とても素敵なことだわ」
ふ、と息を吐く。突然吐き出された暴言に思考の処理が遅れたのか、翔二人は固まって、後ろで固まる烏合の衆は青ざめていった。間抜けな光景、と尚は更に言葉を連ねていく。
本当に、実に素敵で最悪で醜い話。だいたい、この翔は自分がしたことを分かっていない。先の発言は失態よね、と尚は内心でほくそ笑んだ。
「ねえ、エメさんがどうして輪を乱したと言えるのかしら。コアが別の子のものだって分かったのは、彼女が稼働した後だったのでしょう? なら、制作者さんだって、彼女だってどうしようも無いわ」
「は? そんなの、稼働した後に見た目を変えるとか、別人に振る舞うとか出来ただろ。なあ?」
「そうかしら。ねえ、『エメ』として生まれることを期待されて産み出されて、執着されて、勝手に産み出されたわたしたちに選択肢なんてあってないようなものですもの。ねえ、ヒューマンである貴方はわからないでしょうけれど。ねえ、愛されてきた人工生命体である貴方には分からないでしょうけれど」
黄金色に染まった果樹園を思い出す。おどおどとした振る舞いと、一挙一動に気を配り続ける彼女が痛々しいと思った。同時に、覚えてはいけない同情を覚えてしまった。
「わたしたちは、『わたしたち』を産んでくれ、なんて一言だって頼んでいないのよ」
祝福された者には分かるまい。
その存在を肯定されてきた者には分かるまい。
まっさらな命を持つ者には決して分かり得まい。
「うふふ、おかしな話ねえ。どうしてわたしが彼女を否定できるのかしら。どうしてわたしがお前達を肯定できるのかしら。ねえ、教えてくださる? わたしだって、オリジナルの偽物よ。オリジナルが死んだのだってまだ十年も経ってないでしょうから、オリジナルを知る方だっているはずだわ。でもおかしいわね、わたし、そんなこと言われたことなんて一度も無いわ。『尚』という人工生命体は、明確にオリジナルの延長として産み出されたって言うのに、ねえ」
一歩踏み出して、それから翔の顔をのぞき込んで、優雅に笑みを浮かべて見せた。はくはくと口を開いて閉じる人工生命体が滑稽だ。理不尽に逆上しているヒューマンが滑稽だ。
「はあ!? そんなの全然ちが――」
「次に懲罰房に入れられるのは貴方かしら」
「あ? そんなわけないだろ」
ヒューマンの翔は言葉を遮られたことに怒りを覚えているのか、顔を赤くしている。
本当に愚かな話、と尚は長く伸びた右側の髪で遊びながら、そうねえ、と口を開いた。
「人工生命体そのものがサイハテの資源として貴重な上、翔用の人工生命体ってさらに貴重なのよ。地上に投入できる強度を持っているわけですし。陽炎とは別の意味で重用されるわ。そんな人工生命体を一つ、くだらない私怨で使用不可の烙印を押したのは貴方たちでしょう」
「はあ!? 言いがかりだろうが! だいたい、そんなのアイツが」
「エメが『エメ』として振る舞わなければ、といいたいわけ? 馬鹿ね。あえてはっきり言いますけれど、それは不可能よ。彼女は稼働したときには既に『エメ』と同一個体として扱うことが決定していたもの。それ以外にどうやって振る舞えというの? まして、彼女の居場所がそうあれかしと望んでいたって言うのにね」
にこり、と渾身の笑みを浮かべて距離をとった。依頼があるから、ごめんなさいね、と一礼して離れる。きゃんきゃんと騒ぎ立てるうるさい音に眉を寄せて、おもむろに端末を開く。
「やーね、本当に」
これも私怨と言えば私怨だが、さて、この先どう転がるかは、地上を悠々と滑るお天道様に決めてもらうこととしよう。
画面を消灯させる寸前、端末には送信完了の肆文字が浮かんでいた。
*
ぷし、と間抜けな音に顔を上げた。やや疲れた顔の彼女を迎えて、エメは迷わず「おかえりなさい」と口にする。まだ言い慣れない言葉。それでも口にしたいそれを発音しては、浮き足立つ心がそこに在った。
「ただいま。あーっ、まったく、疲れた!」
「ふふ……お疲れ様。地上は色々気を遣うから、疲れるもんね」
「ほんっとうにそう。大体わたし、やけに脆いから見つかったらお終いだもの。もうちょっと耐久性とかどうにかならなかったのかしら」
そういう尚の耐久性は、同じく翔用の人工生命体であるエメから見てもまあまあ最悪だ。何せ、下手に重いものを収納に入れるとその箇所がもげるひしゃげる歪む。重たい持ち物を持とうとすれば腕が負荷に耐えきれずもげる。エメはその瞬間を数度目撃しては小さな悲鳴を漏らしていた。もげた当人は、またか、ぐらいにしか思っていなさそうなのが何というか、アレだ。危うい、とエメは思う。
自己の身体に関する過剰な無関心は希死念慮にも似ている。エメから見た尚は、いっそ苦しいほどに自分に感心がなさ過ぎるように見えた。
――うわあ、相当怒ってるぅ……
――怒ってる、んですか?
――え? うん、確実に。だって尚は基本、人に好かれるように動くから。
緑色の先輩はそう言うと、ため息交じりに言った。正直分かる、と呆れ混じりの声だった。
尚と元チームメイトの口論の話は、結局尚当人に話せていない。というか、尚はエメが聞いていたことに気がついているように見えた。
現に、あの日以降尚の猫がごっそり脱走している。それがなんだかこそばゆくて、嬉しくて、それとなんだか猫を逃がした彼女がどうにも子供っぽく見えていた。
「あ、エメ、ちょっとだけいいかしら」
「え? うん、大丈夫」
「ふふ、用件も聞かずに頷かないのよ」
「あ、ふふ、そうだね」
こっちに座って、とクッションの上を示されて、そこに座る。すぐ後ろに尚が腰を落ち着けて、後頭部がもそもそとした感触を拾った。
「……あ、みつあみ?」
「そ。農作業するとき、邪魔じゃ無いのかしらって思ってて。お節介だったらごめんなさいね」
「ううん、お節介じゃ無いよ。たまに、髪の毛巻き込みそうになるから……」
「え、何に? はさみ?」
「せ、剪定はさみには流石に巻き込まないよ」
流石にそれは無い。巻き込むのは主に枝である。はさみで髪の毛うっかり切ったら流石に落ち込むことだろう。エメは今でこそ葉脈だが、元は翔で身体能力だって相応に高い。当たり前だが、作業中に転ぶとか道具に身体を巻き込むとかは流石に無い。
尚は、そうよねえ、とくすくす笑いながら柔らかい髪を編み込んでいる。ゆっくりとした動作は慎重さの表れだろう。どこか慣れない手つきで、髪を緩く編んでいく。
ちなみに、この日に至るまでに何度かぐっちゃぐちゃの緑の三つ編みが目撃されているが、それはまた別の話だ。エメはその影を目撃していない。
尚が猫をかぶるのをやめた理由も、あの日あんなにも怒っていた理由も、まだエメは知らないし聞けていない。ただ、似た痛みを抱えているのだろう、ということだけがぼんやりと残っていた。
オリジナルになりたくてなれないエメと、オリジナルになれないと知って模倣する尚と、どうしてこんなにも違うのだろう。
きゅ、と髪の束が小さく動いた感触がして、おしまい、と声が聞こえた。背中に手を回し、一つに編まれた髪を前に持ってくれば、淡い紫色のリボンが結わえられていた。
「ゴム、忘れちゃっててね」
「そう、なんだ?」
まあ確かに尚の短さであれば、持ち歩くのはゴムでは無くピンだろうか。でもこんな都合良くリボンなんて持っているのかな、と思ってから、柔らかく笑みを浮かべる彼女へ目を向けた。
丁寧に編まれた髪と、結ばれたリボンと、それから――それから。
「食堂、もう夕方だし空いてるかしらね」
「えっと、どうかな。食堂、いつも混んでるもの」
「はーやだやだ。並ぶのめんどくさいのよね。匠の所にたかりにいこうかしら」
ふふ、と小さく笑みがこぼれる。
何とも気の抜けたやりとりだなあ、と結ばれた小さなリボンに触れた。


コメント